第122回GS木鶏クラ【渋沢栄一に学ぶ人間学】

3月5日(土曜日)に開催された122回目のGS木鶏会の感想文を紹介します。

だいぶ長いことブログをサボってました。同時に、全社員の感想文を読むのをサボってました。

何か心がざわついたりするのは、きっとそのせいかもしれません。

日曜日でありながら、5時30分に起床しましたので、まずは各チームの「推薦感想文」を読みました。推薦されるだけあって素晴らしい内容ばかりです。感想文を読むと、それぞれに対して尊敬の念を覚えます。

そんな中から、今日は二つ紹介します。

 

 

ひとつめは、昨年8月に入社したデザイナーの感想文です。
何よりも表現力の豊かさに関心させられました。センスよよさはUIに現れるのだなと思えます。

もう一つは、まもなく入社3年になるエンジニアの感想文です。
確かな語彙力と論理的でとても分かりやすい解釈、何かの記事として採用されても良いレベルです。

なお、今月号には、弊社の取り組みが記事として掲載されています。(添付写真)
10年以上も続けているご褒美と思います。ありがたいことです。

以下の感想文です。是非、ご覧下さい。

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「人間力を高める「論語と算盤」の言葉」を読んで

私は渋沢栄一の「論語と算盤」の内容を知らず、ましてや「論語」となると四文字熟語の由来が載ってる古典だという位の認識しかありません。そういえば大河ドラマ「晴天を衝け」も4回でギブアップでした。

そんな予備知識ゼロの状態で読んだ今回の致知ですが、渋沢栄一について「バランスを大事にしている人」という印象を受けました。

対談「人間力を高める「論語と算盤」の言葉」から

 ー(渋沢は)世の中には反対する人、悪事を働く人がいるのも当然として認めて、これらの大事業を進められた。

リード文での反日運動のボスに面会するため渡米したエピソードといい、きっと清濁併せ呑む度量の大きい人物だったのだろうと感じました。大きな事を成そうとすれば、価値観が違う相手や利害が衝突する相手と協力しなければいけない場面もあるでしょう。それでも理想とのギャップをただ嘆いたりせず、反対する人を排除したり迎合もせず、現実に即した形で自分の信念を実行してゆくのは、人間に対する深い洞察と優れたバランス感覚があればこそだと思います。「水清くして魚棲まず」というように、寛容さを持って極端に振れない強さが必要だと感じました。かといって澱みすぎてもいけませんが。

以前、北海道の湖中をを記録した番組を観たことがあります。

真冬の水は冷え切って驚くほどの透明度を誇り、水中はうっとりする程の美しさでした。ただし、完璧なまでに清潔なそこは一切の生命が活動しない「死の世界」です。

やがて春になり水温が上がると、眠っていた命が一気に活動を開始して爆発的に増殖します。水は濁るし、水中を漂うプランクトンの塊は正直ゴミみたいだし、あらゆる生物が蠢いて綺麗とは言えない光景ですが、そこでナレーションがこの様子を「豊か」と表現したことが衝撃的だったのを覚えています。完璧に清潔で漂白した世界は、魅力的で美しいけれど「豊かさ」からは遠のいてしまう。

バランスを保つという事はとても繊細で知性が求められる一方、極端に振れることは単純でわかりやすく簡単です。それゆえ、ついつい楽な方に流れると「誰某は間違っている!けしからん!」と人を攻撃したり、逆に「はいはい」と無批判に受け入れてしまったりするのかもしれません。

「正論は刃物です。振りかざす時は覚悟をもちなさい。」という言葉を最近聞いて感銘を受けたのですが、今回の記事を読んで人間の「正しくなさ」を責めない寛容さと、信念を貫く強さのバランスを養いたいと改めて思いました。

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総リード「渋沢栄一に学ぶ人間学」を読んで

 「魔」という字には言葉における役割からまったく異なる意味を持つ。名詞の場合には「正しい道に進むものに立ちはだかる誘惑や災い」の意味を持ち、仏教由来の言葉である。接尾辞の場合には「異常なほどひとつのことに熱心になること」とある。

 今回の致知の主人公である渋沢栄一は、後者の意味にあたる「魔」を3つも持っていたといわれる。異常なほど熱中するものを3つも持って大成することができたのは超人というほかない。超人となるには遠く果てしない道だが、渋沢栄一に倣って私は「結合魔」の考え方を身に付けていきたいと思った。

 「結合魔」とは人と人を結びつけることに熱心だった渋沢栄一の形容詞である。本書では新たな創造を生むためには人と人を結びつけることが必要不可欠だと述べられている。育った環境やモノへの視点がまったく同じ人は存在せず、異質な人同士が出会って異なる考えをぶつけ合って初めて新しい創造が生まれる。

 ここで注意しなければならないのは、似通った人間同士では新たな発想が生まれにくいことだと考える。この懸念を回避する次の2つのことを自戒として記す。

 1つ目には自分自身が積極的に異質に触れていくことだろう。同質のものとは相性が良く居心地が良い。類は友を呼ぶという言葉があるが、新しい創造には普段の視野の外へ一歩抜け出してみる必要がある。例えば、全く違う業界について調べてみると新たな発見やシードがあったり、素養がなくとも美術や音楽のような芸術に触れて感じるものにヒントがあるかもしれない。私自身、同じ場所に留まっているように感じており、全く違う世界にも目を向けて視野を拡げようと思う。

 2つ目は「誰かになろうとせず自分自身でいること」である。このことは私が愛して止まないマンチェスター出身バンドOasisの「Supersonic」という曲にも、「俺は俺でなきゃならない、他の誰にもなることはできないんだから。」という堂々たる歌い出しがある。「自分自身でいること」について、私が自分に対して感じていることだが、他人にあって自分にないものばかりに頭を囚われて自分にあるものから意識が遠ざかっているように感じている。自分の良さや持っているものこそ磨き続けねばならないのに、ないものばかりを追い求めていれば自分の強みが鈍ってしまう。かく言いつつも、今もまだ誰かになろうとしている自分がいて、抜け出せていない状態がもどかしい。自分の芯はなにか、強みはなにか、好きなことはなにか問いただしたい。

 これまで述べた2つの自戒をまとめると、異質と進んで接触することで生まれる小さな独自の創造が自分と他者を異質たらしめ、同時に異質に呑まれず自分の特性や個性を自覚した上で、人と人を結びつけてイノベーションを実現できると考える。

 異質とのふれあいにはパワーが必要で魔が差して踏み出せないことがある。言うは易く行うは難しという言葉を据えて、積極的に外の世界に触れていきたい。そして異質と異質を繋ぐことができるよう自分自身の役割や強みも見つめていく。